日立サンロッカーズ退職について

今回は私的な話です。。。もう一年経つのに未だによくみんなに聞かれるので、この場を借りてご説明します。。。解雇説まで飛び出してかなり皆さん心配して下さるので(笑)。

日立サンロッカーズで、4年間アシスタントコーチ/通訳を務めさせて頂きましたが、昨年、一身上の都合により、自主退職させて頂きました。一緒に戦ってきたチーム、またお世話になった皆さんにはご迷惑をおかけすることになりましたが、今後また海外で大学院などで勉強を重ねたい、という想いがあり退職を決意した次第です。日立で3年目となった2007-2008シーズンが終了する間際の2月に、小野秀二ヘッドコーチ、高倉副部長には「2008-2009シーズンを最後のシーズンとさせて下さい。」とお願いをさせて頂きました。「会社的にも一生を保証できる訳ではない。やりたいことがあるなら、むしろそれを成し遂げて欲しい。一年の猶予をくれてありがとう。」と逆にありがたいお言葉を頂きました。

日立での4年間は本当に毎日が勉強でした。一生懸命な選手、選手のために常に全力投球をする現場スタッフ、そんな現場スタッフを最大限に理解し、支え励ましてくれるフロントスタッフ、いつも気にかけてくれるOBや会社の方々、そして何よりもファンの皆さんからいつもエネルギーをもらっていました。JBLというリーグや日立という会社の良さを学ばせて頂きました。大好きなバスケットボールを仕事として生活させてもらったことに大変感謝して過ごせた毎日でした。

昨季のファイナルでは試合開始30分以上前に選手がシューティングしている時からスタンドの皆さんが全力で”日立コール”をしてくれました。コートでリバウンドをしていて鳥肌が立ったのを今でも覚えています。本当にみんなが必死で「ファンも一緒に戦っている」感覚がひしひしと伝わってきたんですね。選手、スタッフ、社員、ファンの皆さんが本当に一体となって戦っている。。。そんな本当の”チーム”に属することが出来てすごく幸せでした。

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話がそれましたね(笑)。実は日立に来る前に三菱電機メルコドルフィンズ(現在のダイヤモンドドルフィンズ)で2002-2003シーズンに1年間マネージャーとしてお世話になっていました。大学の恩師や家族はバスケットという業界への就職よりも進学を薦めて下さいました。ですがまずはバスケットの業界で働いてみて、自分が将来何をしたいのか確かめてみたかった。そして実際に働いてみて、強く思ったのが自分はどうしても将来コーチになりたい、ということ。またそのためにはもっともっと勉強をしなければならないということでした。三菱電機に入社させて頂き、JBLという場で仕事をする機会を与えてくれた三菱電機の皆さん。短い間ながらもお世話になったたくさんの人にご迷惑をかけながらも、「アメリカの大学院に行き、将来JBLのコーチになる」という夢をかなえるために退職をさせてもらいました。

その後、アメリカへのコーチ留学を経て、いよいよバージニアのスポーツ心理学の大学院進学を真剣に考えていた頃に、日立サンロッカーズからアシスタントコーチ/通訳というポジションでのオファーを頂き、日立への入団を決意しました。当時まだ27歳でリーグで最年少のアシスタントコーチでしたが、3年やって30歳で渡米できれば35歳までには帰国できる。また実際にコーチをしてみることで自分に何が足りないかを知ることが出来る。そんな想いを胸にオファーを受けました。以来4年間、チームにいろいろ迷惑をかけながらも貴重な体験をさせてもらいました。三菱電機のスタッフの皆さんにも対戦時には声をかけて励まして頂き、本当に感謝の想いでいっぱいです。

今回の退職でチームには多大な迷惑をかけてしまったこと、昨季果たせなかったJBL優勝という目標にももちろん心残りはありました。ただ、やはりもっと勉強したい。現在32歳になって、これから海外の大学院に5年間行く、というのはどんどん難しくなって来ています。それでもやはりもっともっと自分の知らないことを学びたい、知らない世界に飛び込んでいろいろ観てみたい。自分の勝手な想いを受け入れて、それでも声をかけて励ましてくれる三菱電機の皆さんと交わした約束や、本当の”チーム”とは何かを教えてくれた日立の皆さんの理解に応えるためにも、しっかり勉強して、いつか日本のバスケットボールに少しでも貢献できるように、断固たる決意を持って前に進んでいきたいと思います。今まで応援してくれた人、心よく送り出してくれた日立の選手、スタッフ、フロントの皆さんには心から感謝しています。今後のことはまた後日御報告します。

訳ありで、昨年から用意していた投稿ですが、投稿が遅れてしまいました。。。